磯部ろうそく店の歴史は。
言い伝えでは三百年ほど続いていると言いますから十五、六代続いているものと思いますが、現存する文献によりますと、私で九代目となります。当店は江戸時代から、通称「堀端の三角屋敷のろうそく屋」と言われてきたそうです。
現在、全国に和ろうそく屋は何軒ありますか。
戦前、岡崎だけでも30軒くらいありましたが、現在では全国に20軒ほど。その内、愛知県に7軒、岡崎には3軒ありますので、愛知、そして岡崎は和ろうそくの一大産地と言えます。その理由として考えられるのは、岡崎は京都に並ぶ、寺院の多い地域ということ。徳川家康公が浄土宗を加護したことで寺院が増えたと言われ、現代においても信心深い土地柄と言えます。
この道に入った経緯は。
この道に入る前は、IT関連会社で営業をやっていました。ある日、父が病で倒れてしまったことで、急にその代役を務めることに。当時26歳でした。仕事から帰るや、夜中2、3時までろうそくを作るという、二足のわらじを履く生活。しかし、困ったことにその仕事内容は、実は私も母もよく分からなかったんです。
そんな中で、幼い頃から父とのコミュニケーションの場であったこの仕事場の風景を思い出し、父が何をしていたか、記憶を辿りながら、手探りでろうそく作りに励みました。父に確認してもらうために、製品を集中治療室に持っていき、アドバイスを貰ったことも。退院後、父と兄と相談し、私が跡を継ぐことになりました。父は59歳で倒れ、その後様々な病気を繰り返しましたが、75歳まで生きていてくれたおかげで、その技術を修得、継承する時間が持てました。
波乱万丈な船出でしたが、何かエピソードは。
ろうそく屋は昔からろうそくのリサイクルをしています。寺院からろうそくの余りをまとめていたのです。ある時、父が倒れた当時に私が作ったろうそくを、数年後に回収する機会がありました。当時、何も分からない状況で、がむしゃらに作ったろうそくはとても不恰好で、非常に恥ずかしく思いましたが、こんなろうそくを目の当たりにした後でも、引き続きご注文をいただけた、というありがたさは忘れられませんね。
そもそも和ろうそくとは。
最も古い文献では、太平記(1375年)に和ろうそくが登場しますので600年以上の歴史があります。西洋ろうそくは石油が原料の「パラフィン」と綿芯から作られているのに対し、和ろうそくはウルシ科のハゼの実から取れる「ハゼ蝋」(学名:Japan wax)を使用します。ハゼは琉球から九州に渡り品種改良された日本特有の植物で、輸入は不可能。産地は九州、四国の温暖な地域です。芯は「い草」の皮を取り除いた灯芯(とうしん)を使い、紙にその灯芯をらせん状に巻きつけ、太い芯を作ります。和ろうそくは100%植物性、化石燃料を一切使いません。すすが少なく、処理が簡単。そして蝋垂れがしにくいのが特徴です。
余談ですが、寄席で最後に高座に上る落語家を「真打ち」と言います。灯りが全てろうそくだった時代、最後の人が芯を打つ、つまりろうそくの火を消すから、ということが語源と言われているんですよ。
ハゼの産地巡りをされたり、イベントを企画されたりと、ただの職人に収まらない活動をされています。
平成3年6月、雲仙普賢岳噴火の火砕流と同年9月に発生した台風19号によって、貴重なハゼの産地が壊滅的な状態になってしまいました。向こう3年間ハゼの実が取れないという状況になり、問屋からの流通も絶たれてしまいました。こうした状況下でも安定した供給をするからこその問屋ですが、それができないというので何十年と続いていた関係を絶ってしまったのです。そこで初めて産地を訪れることに。すると、蝋屋さんも我々ろうそく屋に会ったことがないということを知りました。問屋を介しても、全く情報の流通がない世界だったのです。現場ではおじいちゃんが7メートルある木にはしごをかけて、一個一個ハゼの実をちぎってくれている・・・そういう事情を知ると我々がろうそくを作ることは、彼らの仕事に繋がっているということも分かりました。その後10年くらい、毎年九州を訪れ、産地行脚をし、その地の方々とお酒を酌み交わして人間関係を築いてきました。
また、天然のハゼ蝋を科学的に同じものができないかと検証してもらいましたが、限りなく近いものは作れるものの、同じものはできないという結論に至りました。やはり、自然素材には適いません。
今後の展開、夢は。
2003年から継続的に行っているキャンドルナイトなどのイベントや、雑貨屋、お土産屋など、宗教関係以外の販路開拓の動きは今後も積極的に行っていきたいですね。技術を磨くことはもちろん大事ですが、今の時代はその人の人間的な素養を高めることが求められていると思います。そしてその努力している姿が、自然と周囲の協力を集めてくれるはずですし、製品にもにじみ出てくれるはずですから一生、「人間修行」なんですね。